オークランドの中心部にほど近い場所にある同市最大の公園『オークランド・ドメイン』。なだらかな丘に一面の芝が美しく、頂点にはゴシック様式の重厚なオークランド博物館がそびえる風光明媚な観光スポットだ。
博物館のある丘に立てば、クリケットなどに使われる広々としたスポーツグラウンドが見渡せる。
ふと見ると、グラウンドの中央に取り残されたように浮かぶ小さな森があることに気が付くだろう。この森の中心にはひっそりと植えられた、ある『記念樹』がいまも残っている。
看板もサインも何もない、木製の低いフェンスで囲まれただけの記念樹。植えたのは初代マオリ族の王の末裔だった。マオリ族の想いが託されているこの記念樹から、オークランド・ドメインの歴史を紐解いてみよう。
オークランドドメインは、ウナギの採れる池だった!?
オークランド・ドメインといえば、丘一面に広がる芝生の公園として知られている。
でもそもそも、どうしてそんなに起伏があるんだろう?
実は、ドメインは火山の噴火口跡だ。何十万年も前の噴火によってできた火口部がいつしかその活動を終え、現在のスポーツグラウンドの低地にはかつて大きな池があったという。
最初にこの地に住み始めたマオリ族はそんなドメインの土地をとても気に入っていたようだ。池には食料となる鴨やウナギが豊富にいて、持ち込んだクマラというイモも良く育つ豊かな土壌。見晴らしのいい丘は格好の見張り台として(Pa=パという。)使うことができた。ドメインはマオリ族にとってなくてはならない素晴らしい場所だったのだ。
ヨーロッパ人の入植者によって現在のドメインができた
19世紀に入るとドメインはヨーロッパ人の手にわたり、池はオークランド市民の最初の水がめとしてしばらく利用されたが、のちに市民公園としての利用が決まると埋め立てられ、現在のような芝生の広がる公園が出来上がった。
この新たな公園がのちになって、マオリ族の一つの歴史の舞台になっていく。
ドメインの丘の上にマオリ王が暮らした
19世紀はマオリ族にとっては受難の一世紀だったと言っていい。
銃の流入によってマオリ族同士の戦争が激化したうえ、武装した政府軍に敗北を重ねて住む土地が次々に奪われていった時代だった。
そんな劣勢の中、政府軍と少しでも平等に渡り合うために、マオリ族はそれまでバラバラだった部族を集め、マオリ王を選出するという選択をする。選出された王こそ、ポタタウ(1800年頃-1860年)と呼ばれる人物だった。彼はヨーロッパ人たちと少しでもいい条件を引き出すためにオークランドに滞在することを決め、現在のドメインの丘の上にコテージを立てて交渉に臨んだと言われている。
そう、初代マオリ王ポタタウが政府との交渉の拠点として住んでいた場所こそ、オークランド・ドメインの丘だったのだ。
そして時が経て1940年。その孫にあたるマオリ王の末裔が、19世紀のマオリ戦争のレクイエムとして、またマオリと政府軍の間にかわされたワイタンギ条約の締結の記念として、マオリ族がよく利用してきたトタラというヒノキの一種を、王がかつて住んだこの場所に植樹したのだった。
オークランド・ドメインにあるこの一本の記念樹は、マオリ王の末裔の想いにつながり、王が選ばれた背景を探れば、それはニュージーランドの成り立ちの歴史にもつながっていく。皮肉にも博物館という歴史を学ぶ建物の隣に、ホンモノの歴史の生き証人が植えられているのだ。
皆さんもこのトタラの記念樹を前にして、ニュージーランドの歴史と関わった人たちへ思いを馳せてみてはいかがだろうか。
参考:Wikipedia : Auckland Domain, Te Puea Herangi
wikipedia 日本語- ポタタウ
The Aucklander – Domain’s rich secrets revealed
NZ Herald – Auckland’s Maori heritage
Last Updated on 2022年9月24日 by 外山みのる
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